老いるということは即ち若くなるということではないか。フランスの作家ジャン・ジュネ(Jean Genet 1910-1986)のパレスチナをめぐる晩年の軌跡を追っているとまさしくそう実感する。ジャン・ジュネは晩年パレスチナ解放運動に深くかかわっただけではなく、有名なサブラ・シャティーラのパレスチナ難民キャンプ虐殺事件のヨーロッパ人の最初の目撃者の一人であった。彼は遭遇したこの虐殺事件について、「シャティーラの四時間」(”Quatre heures à Chatila” dans l' Ennemi déclaré, textes et entretiens, Gallimard, 1991)という重要な文章を書いている。この文章は、この虐殺事件の貴重な歴史的証言であるばかりでなく、文学的にも極めて重要な意義をもっている。この文章の日本語訳は1988年に鵜飼哲氏によって『インパクション』51号(インパクト出版会)に掲載されたが、その後長い間一般に入手困難な状態が続いており、しかるべき形での刊行が待望されていた。このたび、ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』(鵜飼哲/梅木達郎訳 インスクリプト刊)として、装いを新たに刊行されることになった。
周知のとおり、同性愛作家ジャン・ジュネは、変った経歴を持つ。私生児として誕生するなり捨て子となり、少年院を抜け出したあと、窃盗を繰り返し、男娼などをしながらヨーロッパを転々。しまいに投獄され監獄の中でポルノ小説を書き、終身刑に処せられたが、サルトル、コクトーらの著名人の署名運動によって特赦され、釈放後作家としての地位を得て文学活動を始めるも、今度はサルトルの批評(『聖ジュネ』)の分析の対象とされ、そのショックで虚脱状態に陥り、自殺未遂。戦後の話は戯曲などをいくつか書いていたのではないか。それがジュネの文学史上の一般的な常識なのではないかと思う。ところが、重大なのはあまり知られていない戦後の軌跡である。サルトルの分析で全裸にさらされたジュネは自殺未遂までして虚脱状態に陥り創作ができなくなったが、その後みるみるうちに再生をとげ、68年以降は政治運動に深くかかわった。そのひとつがアメリカの黒人解放運動ブラック・パンサーであり、いまひとつがまさにパレスチナ解放運動だったのであった。これらの政治運動へのジュネの拘わり方は単にデモや署名運動に参加するといった程度のものではなかった。ブラック・パンサーに関しては、アメリカに渡って、活動家とともに行動し、運動の内部にまで深く付き合った。パレスチナについても、1970年から72年まで2年にわたってヨルダン経由で現地入りをしている。ジュネはPLO議長のアラファトに会い、アラファトはジュネのためにパレスチナ全機関の自由通行許可を示すレターを書き、ジュネにパレスチナに関する一冊の著作を書くことを勧めたという。ジュネはアラファトのレターをもって、パレスチナ解放戦士たち(フェダイーン)と行動をともにしている。さらにジュネは1982年イスラエルのレバノン侵攻の際には緊迫したベイルートに潜入し、サブラ・シャティーラのキャンプでのパレスチナ難民虐殺事件に遭遇するに至ったのであった。
サブラ・シャティーラの虐殺事件については、事件の進行中から現地取材を行ったジャーナリスト・広河隆一氏の『パレスチナ』(岩波新書)などに詳細が記載されているのが、1982年9月16日から18日まで、西ベイルートに侵攻したイスラエル軍が近郊のパレスチナ人難民キャンプを包囲・監視する中で、キリスト教マロン派であるファランジストの私兵集団が、キャンプ内のパレスチナ人民間人1,800人以上(広河報告によるが実数未詳)を欲しいままに銃器や斧やナイフを使って虐殺した。殺されたのは男だけではなく、女性、子ども、老人、病人、医師、看護婦など文字通りまったくの無差別虐殺である。イスラエル軍は、3日に渡って、虐殺を続けるファランジストに水と食料を与え続けて、夜になれば事の進捗が円滑に運ぶように照明弾をあげ続けた。イスラエル兵たちは虐殺を逃れてキャンプから出てきたパレスチナ人を虐殺が進行するキャンプへと追い返したという。ジュネは、イスラエル首相のメナヘム・ベギンのイスラエル国会での発言である「シャティーラで、サブラで、非ユダヤ人が非ユダヤ人を虐殺したからといってわれわれに何のかかわりがあろう。」という言葉を「シャティーラの四時間」の冒頭に掲げている。この事件は、ユダヤ人が実はこのときすでにホロコーストの「被害者」から「加害者」に転化してしまっていることを示す象徴的事件ともいえるのかもしれない。
この時72歳のジャン・ジュネは、パレスチナ人女性活動家ライラ・シャヒードとともにイスラエル軍が侵攻して緊迫したベイルートに潜入しており、この虐殺事件の翌日の9月19日にシャティーラのキャンプに入っている。無数の死体の血の海となったキャンプの中で血だらけの足を引きずりながらジュネは彷徨い、横たわる死体と向き合っていたという。彼は、こうして事件後現地に入って虐殺現場を目撃した最初のヨーロッパ人の一人となったのだが、この体験をもとにして書かれたのが、「シャティーラの四時間」で、1983年1月に「パレスチナ研究誌」(Revue d'Etudes Palestiniennes)に掲載されている。また、同年12月にウィーンにおいてサブラ・シャティーラの虐殺事件に関する国際機関による公聴会に出席した際に、ラジオ放送で重要な証言をしている(”Entretien avec Rüdiger Wischenbart et Layla Shahid Barrada” dans l' Ennemi déclaré)。
この日本語訳にして50頁ばかりの「シャティーラの四時間」を読むと深い印象に心を動かされる。この文章は、60年代初頭以来ジュネが作家活動を事実上止めて執筆上の空白期に入っていたのを20年ぶりに破った作品であるが、シャティーラの事件のことを記したとはいえ、単なるルポルタージュではなかった。82年のシャティーラにおける現在と70年初頭のパレスチナ人達との交流に関する過去の追憶を交互につなぎ合わせて交錯させ、読者に重層的なイマージュを想起させる独特な手法を用いており、さらに、シャティーラでの体験の記述に関して言えば、ジュネがひとつひとつ通り過ぎていくパレスチナ人の死体を詩的言語によって異様な重みをもった視覚的イマージュに昇華させている。これによって、斧でかち割られて膨れ上がった頭の死体が、脳みそがこぼれ落ち血が飛び散った地面に転がっており、その死体には蛆と蝿が群がり、異様な死臭が漂うキャンプの凄惨な現実がジュネの魔術的言語行使によって一種の夢幻的なréalitéに転化されている。たとえば、あるパレスチナ人女性の死体である。「黒くふくれた顔は天を仰ぎ、蝿でまっ黒な開いた口を見せていた。歯がとても白くみえ、その顔は、筋肉一つ動くわけもないままに、しかめっ面をしたり、ほほえんだり、絶えざる無言のわめき声を上げているかのようだった。ストッキングは黒のウールで、ワンピースはバラ色とグレーの花柄、わずかにめぐれているためか短すぎるのか、黒くふくれたふくらはぎの上部がのぞいていた。ここでもまだデリケートなモーヴ色が伴っていて、頬のモーヴ色とそれに近い紫とがこの色調に応えていた。あれは内出血だったのか。それとも、日射しの下で腐敗して、自然にこんな色になったのだろうか。『銃床で殴打されたのでしょうか。』『ご覧なさい。ほら、この人の手をご覧なさい。』私は気づいていなかった。両手の指が扇状に開かれ、そして十本とも植木鋏のようなものでたち切られていた。小僧っ子のように笑いこけ、上機嫌で放歌高吟する兵隊たちが、見つけた鋏を面白おかしく使ってみたのだろう。」(本書20~21頁) この指を切断された女性の死体はジュネの心を強く打ったらしく、ジュネは上述のウィーンのインタビューでも言及しており(本書96頁)、さらに遺著『恋する虜』では、このパレスチナ人女性の死体のイマージュから、まるでサイコメトリーのように、この女性が殺される瞬間のさらに恐ろしい鮮烈な映像を想起している。
このような記述は、かつてサルトルが『文学とは何か』で提示したルポルタージュ言語に基づく文学理論とはまったく別の境地に立つものと言えるだろう。ジュネは、サルトルがそのアンガージュマン文学から追放した詩的言語を逆に徹底的に駆使して彼独自のアンガージュマン文学を生み出したのではなかったか。この意味で晩年のジュネは、こと文学に関して言えば、かつて全裸にさせられるという辱めを彼に与えたサルトルをも実は大きく越え出てしまったと言えるのではないだろうか。さらに言えば、ジュネが愛読したという象徴派詩人マラルメは、詩作にあたっては、言語に対応した現実を空無化して、言語だけに基づく詩的世界を形成した。これに対して、ジュネの場合は、現実そのものは空無化できない重みをもって現前している。これはジュネが体験した現実である。この現実をジュネは言語行使によって、その現実と緊張関係を失わない詩的世界へと魔術的に転換させたのだ。いわば、ジャン・ジュネの体験したパレスチナという現実は、マラルメの詩とサルトルのアンガージュマン文学を繋ぐ糸とも言えないだろうか?
それにしても、捨て子にして泥棒、男娼作家のジャン・ジュネは何故パレスチナ問題やブラック・パンサーにこれほどまでに強い関心をもって拘わったのだろうか?いや正確に言えば、68年以降、作家であることなどジュネにはどうでもよかったのではなかったか。政治の世界にかかわり出してから、ジュネは文学的名声や地位などにはまったく関心がなかったように見える。そんなことよりも、国際社会の捨て子であるパレスチナや、アメリカの捨て子であるブラック・パンサーのほうが彼にとっては親近感があったとも言えるだろう。1979年、ジュネは喉頭癌に侵される。病魔はしだいにジュネの身体を蝕んで、老いていく。だが、それに反してジュネの姿は逆にパレスチナ人たちとの交流を通じてまるで次第に若くなっていくようである。シャティーラの体験の跡、ジュネは、パレスチナ解放運動を支援しながら、パリ、ヨルダン、モロッコなど各地を転々としつつ、彼の作家活動の空白期以降の総てを叩き込んだ著作の執筆に専念する。すなわち、遺著『恋する虜』(日本語訳は鵜飼哲及び海老坂武訳により人文書院から1994年に刊行。原題は、Un captif amoureux, Gallimard 1986)である。500頁を越えるこの本はジャン・ジュネ最大の著作であり、彼が70年前後から拘わったパレスチナ体験を記述したものである。「シャティーラの四時間」で提示された手法をさらに敷衍させ、様々な時期の回想を意図的にばらばらにして繋ぎ合わせたものであり、サルトルが言うところのルポルタージュ言語の行使に徹底的に背いた散文詩であり、冒頭の書き出しからしてマラルメが意識されていることは明白である。それにしても、パレスチナ人たちに向けるジュネの眼差しはなんと優しい眼差しだろう。パレスチナ人と行動を共にするジュネの姿は自己発見の過程だったのではないだろうか?死の数時間前までこの本の原稿に手を加えていたらしいジュネは1986年4月16日にパリのホテルの一室で死去した。出来上がった原稿の冒頭にはこう記されてあった。
「言葉のありとあらゆるイマージュをかくまってこれを使うこと、なぜならこれらのイマージュは砂漠にあり、そこに探しに行かねばならないから。」
本書には、鵜飼哲氏の「シャティーラの四時間」の日本語訳に加えて、梅木達郎氏の訳になる上述のジュネのウィーンにおけるインタビューが納められている。そして、「シャティーラの四時間」に関する鵜飼氏の独自の論考とジュネ及び「シャティーラの四時間」をめぐる最近の評価に関する詳細な解説も収められていて興味が尽きない。いずれも、作家ジャン・ジュネの優れた研究者であるとともに、パレスチナ問題に常にアクチュアルに関り続けている鵜飼氏ならではの仕事と言えるだろう。さらには、参考資料として、「パレスチナ国民憲章」の訳文が収録されているので、合わせて参考にされたい。パレスチナ問題に興味を持つひとだけではなく、文学とはなにかを真摯に考えているひとに広く本書を薦めたい。
(文責:ミーダーン 鈴木)